そなたは、現か幻か?

櫻の樹の陰から、白塗りの美しい手が現れた瞬間、
私は、息を呑みそうになった。

星組大劇場公演『さくら』のお話。

私は、二回目の観劇にして、既に感じていた。

櫻の中に、瞳子さんを。
瞳子さんの中に、櫻の魂を。

櫻は、魂を宿しているとはよく云われるが、
瞳子さんを、瞳子さんで存りながら、古の櫻の樹の象徴的存在、とも二重に捉えると、
より深く吸い込まれて、幻想的に映えて映ってみえて。

―妖しいまでに美しいお前―

じゃないけれど、

漆黒の闇の中、
月の光を浴びて、静かに浮かび上がる満開の櫻の樹の姿見は、
妖しいまでに美しく、そして、恐ろしいものに満ちている。

『桜の木の下には屍体が埋まっている』

これは、
かの有名な梶井基次郎氏の小説『桜の樹の下には』冒頭の一節ですが、

現在も尚、日本人の心をとらえて離さない櫻の魅力手って、
単に華やかなだけでなくて、ミステリアスな一面も持っていることにあると思うんですよね。

その、反面性。表と裏。

だからこそ、
より、妖しく美しく、人の魂を吸い込んでいくような妖力が秘められているのではないか?

それを、『さくら』の瞳子さんに視た。

ぃや、私が視たのは、私の瞳に映ったのは、
既に、瞳子さんではなく、
櫻の生霊が乗り移り、憑依した、櫻の象徴体、魂の化身だったのかもしれないけれど。

櫻の生霊は、あるいは、人霊をも飲み込んでしまうのかもしれない。

だが、瞳子さんは、自分から妖力を吸い寄せている。
櫻の生霊から血を吸い寄せ、そのインスピレーションと同化し、オーラで人の魂を引き寄せる。

あるいは、これぞ、トップオーラなぞというものなのかもしれない。

無意識の内に、
全ての気が、そこ(瞳子さんの元へ)集中していっているような、不思議な空間の中で、
静と動の織り込みが美しい、フィナーレのさくらボレロ。

私は、だから、櫻が大好きなのだ。

妖しいまでに美しいお前、私は、今宵、そなたに捧げよう。

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